昭和五十六年六月二十三日 月例祭
という方が福岡西支部の分会長さんです。女ながらなかなか素養があられるというのでしょうかね、いい信心をなさいます。いろいろと神様からお知らせを頂かれます。今日は参拝をしてきて、「信心の極意、秘中の秘」ということを頂かれた。私、合楽では確かに信心の極意、秘中の秘といったようなものが解明されておるのが合楽理念だと思うのです。それとてもやはりこれは私がお話をしたから、みなさんが聞いて分かったからというて、すぐ体得が出来るというものではない。これはやはり稽古に稽古を重ねていくうちに、それが頂けるものであり、分かってくるものである。ちょうど楽器も調子を調べるようなものだと。
例えば私が若い時に、三味線を弾きましたから分かる。初めから調子が分かるという人はおりません。だんだん教えて頂いておるうちに、言うなら耳が肥えてくると申しますかね。これが二上がりだよ、これが三下がりだよと、教えて頂いても、それがああそうですかと、すぐ分かるものじゃない。それがだんだん何時の間にか弾きながらでも調子が狂うておることが分かる、そこを調子を変えていけることも出来る。だからこれが二上がりですよ、三下がりですよと言われても分からない。いわゆる体得だと。合楽では、いわゆる信心の極意と、まあいつもそういうお話を頂いておるのですから、みなさんが一つの、まあそれを信心では悟りというふうに申します。体得して頂きたいと思います。
私は生来、魚を食べるのが嫌いなんです。だんだんおかげを頂きましてから、魚もおいしく頂くようになりましたけれども、特に私は鮭が好きなんです。塩鮭。それも身のところだけを頂くのがね。ところが最近分かりましたことは、この鱗のような皮がついてる、あれがどうも頂けなかった。だからあそこだけは取って身だけを頂く。ところが何かの調子に皮も頂いたんです、いっしょにがぶっと頂いた。ところがね、今までより一段と鮭の味がよい。皮をいっしょに頂いたら、以来私は二、三日前もそうでした、鮭が出ました。繁雄さんと高橋さんと前で頂いておられる。やっぱり好きなさらんとでしょう、皮だけはこう横に取ってから身だけ食べなさいますもん。そりけん食べてんのち、おいしかけん食べてみなさいと無理矢理食べさせたら、はあやっぱおいしかですねと。ですからとにかく身では味わえない味が皮にあるということが最近分かりました。
あのイワシの煮干しというのがあります。私は身だけをむしって頂くような感じでしたですけれども、最近は味を覚えて、とにかく人にも進めておる、とにかく頭からがぶっと頂かにゃおいしくない。ところがね頭にはもう身のところではない素晴らしい味があるですね。魚好きの方はご承知でしょうけれども、私は最近それが分かった。食べてみて分かった。初めの間は恐々とね、頭がこうしとるから、けれども思い切ってがぶっと食べてみると、なるほど歯ざわりも良いし、身もやわいです。そしておいしい。信心もね、ただ身のとこだけむしって食べるという信心から、信心の味わいを噛み出し頂きだしていかなければ信心の喜びには触れられません、おかげの喜びはあっても。
先だってから、ある方から電話がかかってまいりました。月末までに、これこれだけの金額をどうしてもおかげいただかなきゃできません。それで私どもの店にあるものを、出張販売というのでしょうか、お金を作るためにやらせて頂くから、お繰り合せお願いします。そして電話の向こうで真剣に言われます。親先生、私が助かって、私の地方の方達が助かって頂きたい。そして本当に思います。千万円、一億円でもお供えしたい思いでいっぱいです。もう涙ぐんでおられるような声で、私の耳に電話で響いてまいりました。
私はその翌朝の御理解に、そのことを申しました。昨日はこうこうだったけれども、この神様はね、一千万円、一億円もお供えするなら、いっちょおかげばやらじゃこてという神様じゃない。神様はそんなお金が欲しいという神様じゃない。信心を頂かなければ、神様はそのくらいのことじゃ騙されなさらんという話をいたしました。ところが御理解を終わってしばらくしまして、また電話がかかってまいりました、その方から。おかげ頂きました。もうほんとにおかげの泉の中に読ませて頂いている通り、置いたものを取るようにという言葉がちょいちょい出てまいりますが、昨日の商いこそ、置いたものを取るようにとは、このことだろうと思うようなおかげを蒙ったという電話のお届けでした。それで私は次の朝の御理解に申しました。一千万円、一億円お供えしたい思いでいっぱいです。そんなことで神様は騙されなさらんと言うたけれども、神様はやっぱ騙されなさるばいと、本とに一生懸命、嘘じゃない。中にはそういう人があります。それこそ笑い話じゃないけれども、家内が産気づいた。神様ば主人が一生懸命拝みよる、それこそ安産のおかげを頂かせてください、無事に生まれたら千の燈篭もお供えすると言いよる、そしたら奥さんが、その苦しみの中から、ああた、そげなこと言うてから、そげなお供えがどうして出来るですかと、そしたら、今、神様ば騙くらかしよるとじゃけん、はよ産めと言うたと。まあそれによう似たようなことがないじゃないですばい。もうそりゃ私がおかげ頂いたら、ここのお広前の畳は一人でおかげ頂きますと、おかげ頂いてから、それきり信心を止めた人がいる。これは椛目時代、昔の話です。これもやっぱ神様を騙くらかしたというような感じがする。けれども神様は騙されもしなさいましょうけれども、結局、おかげは受けてもそれが信心にはならない。お徳にはならいということ。宝くじが当たったら、しようということじゃない。本気でお商売ならお商売の上に一生懸命働きます。繁盛させて下さい、というのですから、筋が立っている。
それを過去の金光教では言ってまいりました。特に津田博士という有名な先生がおられます。ご信者さんですけれども、みんなが先生、先生と申します。全国お話をして回られる方でした。この方のもう一本槍というのは「信心は御用なり」と言うておられます。私どももほんなことと思うて一生懸命で御用した時代があります。それが今の金光教のごたる感じですね。ですからあっちこっちの教会から大受けでした。御用すりゃ助かるということが、先生方でも信者に御用させたい、してもらいたいというのがありますからね。そしてやっぱり御用に打ち込めばおかげを受けることは間違いないです。けれどもそれがあの世にも持って行けるとか、この世にも残しておけるというものになっていない証拠には、あちらのお父さんは総代までして大変な御用の出来た人、おかげを頂きなさったけれど子にも孫にも伝わっていないという事実がたくさんある。だからね、やはりおかげも受けなければならない。けれどもそれよりもっと大事なことは信心を頂かなければならないということ。その信心を頂く、そうしておかげを頂く力を頂くということ。それには、その信心そのものの味を分かって、だんだんその極意であり秘中の秘と言われるところにも、その奥処へとも進んで行っていただける信心を目指さなければならん、願わなければということになるですね。
もう信心さえしとけばおかげ頂くということじゃない。そりゃおかげも頂き頂き、昨日一昨日でしたか、今晩参っておられますが鞍手の柴田さん、一人のご信心でたくさんの人がお参りをしてくる。もうお参りをしてくる時には、人が助かるということに一生懸命の方です。電話がかかって来まして、昨日の晩遅うお礼参拝してきて、その前の晩、御結界にお薬のお供えをしていたけど、飲んで頂いたでしょうかと、電話がかかってきた。ああああたからじゃったですか、私はたばこかと思うてから、こけなおしとると言うたら、ぞうたんのごと、あれは虎の肝ですばい。ああもう得難い大変高価な薬でもありましょう、効く薬だ、どうぞ親先生頂いてくださいと言われるから、私は昨日からそれを二錠二日に渡って飲んだ。ところが効きますよ。今日、私ここで五時間奉仕しますから、立ち上がる時には足が上がらんごときついです。とこが立ち上がる時に、先生方に話したことじゃった、あん薬は効くばい、今日はいっちょんきつなかと言うた。ほう、効くもんじゃあるなというてね。それこそ喜びで下がらせて頂きましたら、昼からまたきつなった。だからずっと飲んでおらなんごたるですね。だからきつい時には、そういうとん服的なおかげも頂かなければならない、飲みもしなければならないけれども、それがいよいよ血にもなり、肉にもなるというものを頂かなきゃならんということです。
今度は、先生、ヘビの肝ばと思いよります。ほうヘビの肝ば、度胸のいること、それは目が見えるごとなる。これをまあ頂いたら、いっちょまあ度胸定めて頂こうと思いよりますけれどもね。いやもうほんと昨日から私は双眼鏡を置いとるです。それで双眼鏡で朝の御祈念の時、ずっとこうあそこにきは誰が参っとると、研修の時なんかはね、もうたった4、50人の先生方が並ぶだけですけれども、もう半ばから向こうは誰やら分からん。だから名指しでだれだれさんと言おうと思うけれども顔が分からんもんですから、昨日から双眼鏡で見るとはっきり分かるです。もう合楽のお広前は広かけんで、親先生が御結界から双眼鏡で覗きござる。いやそげな評判が立つかもしれませんよ。
けれどもね、結局、おかげも頂かなければならない。おかげのコツというのは、本気で御用ができる。本気でさせていただく、それこそ1千万が一億円でも本気でお供えがさせて頂きたいというような一念を黙ってじゃない、それを言葉に出してお取り次ぎが願えるという、それだけでもやっぱおかげを受けるということが分かりますね。なるほど信心は御用なりと、その時点までは御用なりです。けれどもそれから先、なら信心すれば誰でもお徳が受けられるという、誰でも受けられるという信心では、そんな訳にはまいりません。せっかく合楽でおかげを頂いて今言うように、それこそ秘中の秘、これが信心の決め手というようなお話をみなさんは頂いておられます。もし私が今合楽で頂いておるような話を昔頂いたら、おそらく私は大商人になっとったじゃろうと思います。おかげで信心は御用なりで、御用なりではいけないことに、行き詰まって、初めて信心の眼が開けたというか、言うなら真の信心を求めるようになって、今日の合楽理念の誕生ということにはなったのです。
昨日は田主丸のむつやさんのところの宅祭でした。もう30年間続いております。お母さんの信心の時代からでございますから。ちょうど私がおかげを頂くようになって30年といや30回、必ずその宅祭の終わった後を私ども夫婦の結婚記念日に当たるのです。それで特別にケーキなどを用意してご直会がしてございます。そしてお祝いをしていただいてまいりましたが、昨日も大変にぎやかな素晴らしいお祭でした。今度御神前がまた模様替えになりまして、私どもの控えの部屋までができました。見事な30何畳でしょうかお広前が、そりゃ素晴らしい。そういうお祭の後に私はみなさんに聞いて頂いたことでしたけれども、「その気にならなければ」ということでした。神様がその気になってくださらないということです。そのその気ということも、これならば間違いない、例えば石井信司郎さん夫婦が一月前から、朝の御祈念に夫婦が手に手をとらんばかりにして参ってくる。そしてお取り次ぎを頂いた後に、一月後に使えさせていただく宅祭がどうぞ親先生に喜んでいただくような、神様に喜んでいただくようなお祭をさして頂きたいという願いが願い続けられて来ての昨日のお祭、ほんとに素晴らしい、年年歳歳有り難い。共励の中にいろいろ意見が合わないという共励もあったですけれども、昨日はみんな揃うてお参りが出来て、みんな揃うて玉串をあげる時に、ほんとに親達が喜んでおられるであろう、これこそ神様がお喜びであろうと私は思わせていただくようなお祭でしたが、その気になって、親達がこげなこつば初めとったもんじゃから、また宅祭ばせにゃんといったもんじゃなくて、親の代よりも増して内容を込めての言うならば若いけれどもお祭だけは大事にさせてもらう。そしてせっかくさせてもらうなら、神様に喜んでもらえるようなお祭をと、その気になってと、もうなにもかにもが足ろうてくる。
私は今度あちらのお店に行ってから、おかげ頂きよるなと思うた。店に入ったら分かるですね、雰囲気で、繁盛しよるな、繁盛しよらんなということが。もうほんとに何か生き生きとした感じがお店いっぱいに溢れとるような感じでした。そしてその有り難いお祭を奉仕させて頂いて、言わば夫婦の者がその気になって宅祭をさせて頂いた。神様がその気になってござる証拠に、思いもかけないおかげがある。最近、むつやが繁盛のおかげをいただいて初めの間はまだ若い、いわゆる青年社長ですから、隣近所の大変信用の厚い商売の上手な近所の方達がいわゆる指導をしてくださった。「信ちゃんこうがええばい、ああがええばい。こんなふうにやらんの」と言うて教えてくださっとった方達が最近は、「これは信ちゃんが生き方の方がほんなことばい」と言い出した。サンロードという商店街の全部の人達がです。いうならむつや呉服店に注目するようになった。信ちゃんの話を聞こうというようになった。合楽から一辺先生に来て頂いて話をしてもらおうというようなおかげにもなった。今度、あんた方のお祭には、私どもも一辺呼んでくれんのというて、昨日もだいぶ参っておられました。というようにです。おかげを受けるということが、そして隣近所にでも広がっていくほどしのおかげになっていかなければならん。それにはまずはその気にならなければいけない。
今度、先生の控えにというて、お広前の続きに出来ておる部屋に床の間が出来ておる。こっちに半床があってお花が入れてある。軸がかかっておる。それで私、昨日繁雄さんに、これはここんところに何かいっちょ掛けるといいねと、うちにお多福さんの面があったろうが、それがどこの部屋に掛けても合わない。とても素晴らしい面なんです。けれど合わないけん、あればここに掛けたならよかろうと思うて、あれば探してから、むつやにあげようと言うて話をしておりましたら、今朝の御祈念の時に、その模様を頂くんです。そして今朝の御理解の教典を開かせていただいたら「信心は家庭に不和のなきが元」という御神訓でした。それから探してもらって探し出しましたから、持って来て見せていただきましたが、もう素晴らしい面と同時に、ちょうどあそこの嫁のかよこさんによう似とる。見よりゃ身よるほど、よう似とる。これはむつやのもんばい。お礼に出て来ましたから、すぐその面を私はやって、あそこに掛けないいうてあげたことでございますけれどもね。そして今朝の御理解を頂きなさい。今朝の御理解はあんた方が頂かなければならない御理解だと言うて、昨日の私どもが40年間になる結婚生活、40年間の記念の日に、みなさんに今朝から聞いて頂いた、おかげを頂いて、様々なことがありましたけれども、お互いが辛抱し合い助け合い、そして今日に至っておるおかげの状態というものが、今日、大坪一家の栄があるとするならば、また今日の合楽教会の御ヒレイがあるとするならば、私ども夫婦の言うならば、「信心は家庭に不和のなきが元」と言われた、その元を大事にしておかげを頂いてきたからだとも言えるでしょう。してみるとね、信心のおかげの要諦というものはね、まずは自分の心に和の心、まずは夫婦が親子が家庭が、言うならば円満のおかげを頂き、それこそ「拝み合いつつ拝まれつ 研きあいつつ研きつつ 今日の喜び何にたとえん」。これは家内の誕生の時に、この前の誕生の時に頂いたお歌ですけれども、それが40年間続いてきて、今日の合楽の御ヒレイがある元だと言うことです。どんなに素晴らしい合楽理念を体得してもです、夫婦の中に親子の中に和があんまりないようなことではですね。ほんとのおかげにはならない、おかげの受け物にはならないということです。それにはやはりいろいろと精進もいります。私ども夫婦、私どもの結婚の時に、神様に一番にお誓いをしました。おかげをいただいた、言うなら私の理想の家内を迎えることができましたが、これからどういうことがあるか分からんけれども、家内に手を当てるようなことだけは一生謹みます、出しませんという誓いを立てた。おかげで40年間家内に手を当てたということはありません。たまにゃ打っ叩きたいような時もありましたけれどもね、やっぱ神様に誓うとりますから辛抱しました。おかげを頂いて、もうこの頃は言うこともいらん、何にも言わんでも交流し合えれる。それこそ祈り合いつつの信心が出来てまいりましたら、今日合楽にこういう、それだけではございませんでしょうけれども、「信心は家庭に不和のなきが元」とおっしゃる、その元を頂きぬき、頂き続けて、それを大事なもの有り難いものに育て上げてきたというところに今日の合楽の御ヒレイがあると言うても過言じゃないと私は思うです。
おかげを頂くコツというのはです、たとえ夫婦仲が悪かってもです、御用すりゃ助かるというような手もあります。そういう信心もあります。おかげを頂くというようなことの秘訣というものも体得しなきゃいけない。今言うように、きつか時にゃやっぱり虎の肝でも飲ませて元気ださにゃできない時がありますでしょうが。かと言うてなら、それだけではできない。ほんとにきつくないおかげの頂けることのできるためにです、頂きたくないと思うものでも頂いてみて、むしろこれの方がこんなにおいしかった味があるという信心をです、お互い難儀はいや、災難はいや、それこそ平穏無事でと思いますけれども、いつ雨が降るやら風が吹くやら分からんけれども、それを有り難く頂く、言うならば姿勢、構え、そしてむしろお天気の時よりも雨の時、風の時の方が、それこそ雨風で傘もさされん、お参りしたら下の方はびっしょり濡れとる、お広前に座ったらお広前が濡れるような思いで参って来た時の朝というのは、また格別。お天気の日に参った時のようなことじゃない有り難さが分かる。イワシの頭なんてと思うとったけれども、イワシの頭にこういうおいしい味があるとは知らなかった。そいう味をね、体得していかなければ合楽通いの言うなら楽しみ喜びというものはありません。ああお月次祭に参らじゃこてじゃなくて、そのお月次祭が待ち遠しい。今日はお月次祭ぞと、すこしご飯の用意を早くせろ。畑に行っておるなら今日は早く引き揚げてみんなでお参りするぞというようにね、生き生きとした瑞々しい。
今日、北島さんがご夫婦で参っておられますが、お知らせを頂いておられるのにね、「信心にはその生き生きとした瑞々しさがいる。そこにお米を頂いても、これには熱をかけなければままにならん。それには言うならば緑の信心、生き生きとした青々としたような瑞々しい信心が必要だぞ」というお知らせを頂いたというお届けを、今、聞かせてもらったんですけれども、やはり信心には工夫が大事。どんなにこれが秘中の秘、極秘ですというて習うても習うたからというてすぐそれが体得できるものではない。これは自分がそれを実験実証していくうちに、それこそ心で体で体得するより他にはないのでございます。これは楽器の調子を耳で覚えていくのと同じことです。そこに言うなら天地の調子が合うということを申します、天地のリズムと申します。そのリズム音がね、それこそ軽快に、私どもの心の上に響いてくるようになりますと一日が有り難いリズムに乗った信心生活ができるようになる。
おかげを頂くコツも覚えなきゃならん、けれども信心を頂く、お徳を受けるという極秘、またはその手立てというものはです、なお有り難い貴いものですから、そこんところを頂かせてもらおう、今日は、何をどこを頂こうかというような信心をさせてもろうて、自分で調子が合わせられていく、いうならその調子を合わせられるようなおかげを頂いたら信心が楽しいもの愉快なもの、しかもそれはそなままあの世にも持って行けるもの、この世にも残しておけれるものということになるのです。どうぞ。